2020年09月14日
2017年09月14日
傘貼り与兵衛
濡れ縁に雀。障子の穴から乾いた風。骨組みとなった古傘に糊を塗り、柿渋を塗りたくった朱染めの和紙をピシャリ、と貼り付ける。長屋の手狭な三坪六畳間は、足の踏み場もないほどまでに傘で埋め尽くされていた。その中で大喜多与兵衛は黙々と傘貼りに没頭している。
男が一人、断りも無く木戸から入って来た。与兵衛は意にも介さず。
「相変わらず精が出るのぉ」
男は土間で埃を払い、かまちに腰を降ろす。
「お前も暇な男だな。いいのか? こんな所ほっつき歩いてて」
「いいのさ。廻り方同心なんざ暇な役目よ」
男の名は久間紀之介。与兵衛とは旧知の仲である。雀が何かに驚き音も発てず飛び立つ。柔らかな日射しだけが濡れ縁に残る。
「それより聞いたかい?」
「何をだ」
「辻斬りだよ。今朝、美濃屋んとこの角に仏さんが転がっててなぁ。巷じゃこの話でもちきりだぜ?」
近ごろ浪人風情が他国から多く流れ込んで来た。そのせいもあってか治安は乱れ、町人たちも枕を高くしては寝られない毎日。
「俺は昼まで寝てたから知らん」
「呑気なもんだな。もうお天道様も傾いちまったぜ」
「だいたい辻斬りなんざ夜出歩かなければいいんだ。俺のような貧乏侍には色町で遊ぶ金子も無いしな」
与兵衛は手を休め、久間のほうを向く。
「何が色町か。夜ごと夜鷹を連れ込んでるって聞き及んでいるぜ?」
「人聞きの悪い。あれは雨宿りさせたり夜露を凌がせてやってるだけだぞ」
「どっちにしろ、いい噂は立ちゃしないよ。卑賎の輩と武士であるお前様が、ひとつ屋根の下で暮らしてんだ。ましてや若い男女と来らぁ、噂も立つってもんよ」
「噂など知った事か」
「とにかくだ。あんなもん連れ込んでないで、いい加減嫁でも貰ったらどうだい?」
「なぜ所帯の話になる。だいたい十石二人扶持でどうやって嫁を食わす」
「だからよ、お前様もいつまでも傘なんざ貼ってねぇで、奉行所に仕官しろぃ。俺が口利きしてやんから」
「俺は此れが好きなんだ」
ピシャリ。
与兵衛は再び手を動かし始めた。口の減らない久間は、放っておけばいつまでも喋り続ける。
「ま、茶も出ねぇ事だし、俺はこの辺で……」
「お前、何しに来たんだよ」
「お?」
久間がダルそうに腰をあげ長屋を出ると、晴れていたのが嘘のようなどんよりとした空模様。
「こりゃ、ひと雨来そうだな」
「そこの傘持ってきな」
「おう、そいつぁ有難てぇや。お前様の傘は滅多に破れねぇって巷でも評判だからな」
先ほどまでとはうって変わって湿った風が、蛙の声を運んで来る。与兵衛も思わず障子を開け、身を乗り出し天を仰ぎ見た。
ポツリ。
と、鼻先を濡らす一滴の雨粒。しかしながら一向に降るのか降らないのか、はっきりとしない曇り空。
暫くして、猫の額ほどの庭に植えられた紫陽花の葉を、雨が叩く音。蛙の声が呼び寄せたか、夕暮れ近くになるにつれ強くなる雨脚。
「ひやぁ、すっかり降られちまったよお」
木戸からいきなり入って来た女は濡れ鼠。抱えていた莚を土間に放り投げる。
「お理津か。そろそろ来るんじゃないかと思ってたよ」
「アタイを待ちわびてたんかい?」
「馬鹿言え。ほら、そっちの傘はもう乾いているから畳んでいいぞ」
女はその辺の傘を畳み、自分の座る場所を作った。
「手拭い借りるよ。まったくさ、河原でお侍の相手してたら、いきなりこの大雨さ。金子も取らずに逃げて来ちまったよ」
「夜鷹が昼間っから商いかよ」
「しょうがないだろ? 今どきたったの二十四文なんだ。明るかろうが暗かろうが、やれる時にやんないと飢え死にしちまうよお。それともアンタが食わしてくれるってのかい?」
「俺の稼ぎもお前とたいして変わらん」
忙しなく髪の毛を拭うお理津は、久間に負けないくらい減らず口を叩く。
「嫌だねぇ貧乏話は。アタイだって芸事のひとつでも覚えてりゃ、遊廓でもっと稼いでやるんだけどねえ」
「お前の不器用は生まれつきだからな」
与兵衛を睨み付けるも一瞬。すぐさま甘い声で囁く。
「でもね、男をよろこばせる事にかけちゃ、誰にも負けやしないよ」
「こら! そこの傘はまだ乾いておらん!」
「んっもぉぉぉ、狭い狭い狭いっ! こんな傘だらけの部屋だから……」
朱色の花が咲き乱れる六畳間、小さな拳で膝をだむだむと叩く。そんな姿を見て、与兵衛は微笑むのである。
薄暗い中で糊を仕舞い、乾いている傘を畳んでまとめあげる。お理津は雑穀を炊き、梅干しと漬物で質素な食卓を作る。そして、いよいよ何も見えなくなってから火は灯された。菜種油も安くはない。
「聞いたか? お理津。昨晩辻斬りが出たそうだ」
「物騒だねえ」
「他人事のように言うでない」
二人はメシを平らげると、酒を酌み交わす。
「アタイの事、心配かい?」
「……」
答えず、黙って杯を突き出す。
「刀で斬られるか飢え死にするかの違いじゃないか」
「酔ってるのか?」
「このくらいじゃ酔いやしないよ。さて、と、雨も止んだみたいだ。アタシゃそろそろ行くよ」
「俺も出来上がった傘を納めに行かねばならん。そこまで送る」
雲の切れ間から少し欠けた月が顔を覗かせている。湿った風に柳が揺れれば、緑の匂いが鼻孔をくすぐる。通りはぬかるみ。
「その辺の道ばたまでだってのに送られるなんて、変な話だよう」
「ついでだ。夜が更けたら夜露を凌ぎにまた来るといい」
蛙の代わりに虫の声。二人は水溜まりを避けながら歩く。
「こんな日は八幡さまの軒の下ぐらいでしか出来ないねえ」
「罰当たりめが」
「このあたりでいいよ」
八幡社の手前。橋を渡れば武家屋敷が建ち並ぶ。莚を抱えたお理津は物陰の闇溜まりへと姿を消した。
やや歩くと、町屋の先に提灯が揺れている。闇を透かして見れば、それは久間だった。
「夜の見廻りかい?」
「おお、与兵衛か。まぁな、これもお役目さ。お前様は?」
「仕上がった傘を納めに行くところさ。雨が止んで良かった」
「良かないさ。屋敷でゆっくり杯でも傾けてるつもりだったのによ」
その時である。今、与兵衛が歩いて来た方角から叫び声のような物が上がった。
「なんだ?」
久間が呟いた時、与兵衛は既に走り出していた。橋を渡り八幡社の手前。月明かりの下、泥まみれのお理津と、刀を振りかざす一人の浪人。
「待てぃ!」
その時を与兵衛の一喝が止めた。
「貴様はあれか、世を騒がせている辻斬りと言う奴か」
「!?」
「お理津、大丈夫か?」
通りの真ん中に倒れるお理津に声を掛ける。幸いにも斬られてはいない。
「い、いきなりコイツが斬りかかってきたんだよ!」
「俺の家に逃げていろ」
「ア、アンタこそ逃げなよ! アンタ、人斬った事なんて無いんだろ!?」
鳥居の下で刀を構えていた影が、にわかに与兵衛のほうを向いた。
「……どこの誰ぞ知らんが、邪魔立てするなや。たかが夜鷹の一匹ぐれぇで」
流れ者だろうか、深編笠の下から聞こえる声には多少の訛りが含まれている。
「そうはいかぬ」
言いながら与兵衛は、束ねてあった傘からその一本を抜き取り、そして残りの束を投げ捨てた。
「与兵衛!」
後を追って駆け付けた久間が叫ぶ。しかし、その時彼は既に動いていた。
泥を跳ね上げながら一直線に浪人へと向かってゆく。左手には朱色の傘。
ぴしゃ
浪人は左足を半歩前へと摺り足。雨よりも冷たい笑みを口元に浮かべながらの右、上段の構え。その動きには無駄が無く、かなりの手練れであることが窺える。虫たちも沈黙する朱塗りの鳥居の下。
ばばっ!
大輪の花が咲き、浪人の視界が朱に塗り潰された。が、うろたえも一瞬、構わす振り下ろされる一閃。だがしかし、手応えもなく傘を両断。
「ぐはっ」
刃を上に向けた刀が背に、貫かれぬまま突き立てられていた。その柄には腰を落とし、前のめりの与兵衛。浪人の頭から深編笠が音も無く落ちる。
「なまくらも、役には立ったか」
抜けない刀を手放し立ち尽くす与兵衛と、背にその錆の浮いた刀が刺さったまま、俯せに倒れる浪人。
そして、張り詰めた時が再び動き出したかのように、いきなりの豪雨。それは噴き出した血を洗い浄めるかのよう。
「与兵衛!」
駆け付ける久間に与兵衛は顔を上げた。
「たまには刀の手入れもせんと、いかんな」
「ふっ、ははははっ! そうよ、お前様は傘ばかりだからいけねぇ」
「まぁいいさ、俺は傘貼りが好きなんだからな」
橋の袂に転がる傘の束を拾い、抱えた束からまた一本抜き取りお理津のもとへ。
「帰ろう」
言いながら傘を開く。お理津は黙って頷き、その下に入り寄り添う。久間の見送る中、朱色の傘が雨に煙ってゆくのであった。
ー完ー
※この話を元に長編官能小説を書きフランス書院文学賞に送って見事落選したのがこちら。(十八歳未満閲覧禁止)
男が一人、断りも無く木戸から入って来た。与兵衛は意にも介さず。
「相変わらず精が出るのぉ」
男は土間で埃を払い、かまちに腰を降ろす。
「お前も暇な男だな。いいのか? こんな所ほっつき歩いてて」
「いいのさ。廻り方同心なんざ暇な役目よ」
男の名は久間紀之介。与兵衛とは旧知の仲である。雀が何かに驚き音も発てず飛び立つ。柔らかな日射しだけが濡れ縁に残る。
「それより聞いたかい?」
「何をだ」
「辻斬りだよ。今朝、美濃屋んとこの角に仏さんが転がっててなぁ。巷じゃこの話でもちきりだぜ?」
近ごろ浪人風情が他国から多く流れ込んで来た。そのせいもあってか治安は乱れ、町人たちも枕を高くしては寝られない毎日。
「俺は昼まで寝てたから知らん」
「呑気なもんだな。もうお天道様も傾いちまったぜ」
「だいたい辻斬りなんざ夜出歩かなければいいんだ。俺のような貧乏侍には色町で遊ぶ金子も無いしな」
与兵衛は手を休め、久間のほうを向く。
「何が色町か。夜ごと夜鷹を連れ込んでるって聞き及んでいるぜ?」
「人聞きの悪い。あれは雨宿りさせたり夜露を凌がせてやってるだけだぞ」
「どっちにしろ、いい噂は立ちゃしないよ。卑賎の輩と武士であるお前様が、ひとつ屋根の下で暮らしてんだ。ましてや若い男女と来らぁ、噂も立つってもんよ」
「噂など知った事か」
「とにかくだ。あんなもん連れ込んでないで、いい加減嫁でも貰ったらどうだい?」
「なぜ所帯の話になる。だいたい十石二人扶持でどうやって嫁を食わす」
「だからよ、お前様もいつまでも傘なんざ貼ってねぇで、奉行所に仕官しろぃ。俺が口利きしてやんから」
「俺は此れが好きなんだ」
ピシャリ。
与兵衛は再び手を動かし始めた。口の減らない久間は、放っておけばいつまでも喋り続ける。
「ま、茶も出ねぇ事だし、俺はこの辺で……」
「お前、何しに来たんだよ」
「お?」
久間がダルそうに腰をあげ長屋を出ると、晴れていたのが嘘のようなどんよりとした空模様。
「こりゃ、ひと雨来そうだな」
「そこの傘持ってきな」
「おう、そいつぁ有難てぇや。お前様の傘は滅多に破れねぇって巷でも評判だからな」
先ほどまでとはうって変わって湿った風が、蛙の声を運んで来る。与兵衛も思わず障子を開け、身を乗り出し天を仰ぎ見た。
ポツリ。
と、鼻先を濡らす一滴の雨粒。しかしながら一向に降るのか降らないのか、はっきりとしない曇り空。
暫くして、猫の額ほどの庭に植えられた紫陽花の葉を、雨が叩く音。蛙の声が呼び寄せたか、夕暮れ近くになるにつれ強くなる雨脚。
「ひやぁ、すっかり降られちまったよお」
木戸からいきなり入って来た女は濡れ鼠。抱えていた莚を土間に放り投げる。
「お理津か。そろそろ来るんじゃないかと思ってたよ」
「アタイを待ちわびてたんかい?」
「馬鹿言え。ほら、そっちの傘はもう乾いているから畳んでいいぞ」
女はその辺の傘を畳み、自分の座る場所を作った。
「手拭い借りるよ。まったくさ、河原でお侍の相手してたら、いきなりこの大雨さ。金子も取らずに逃げて来ちまったよ」
「夜鷹が昼間っから商いかよ」
「しょうがないだろ? 今どきたったの二十四文なんだ。明るかろうが暗かろうが、やれる時にやんないと飢え死にしちまうよお。それともアンタが食わしてくれるってのかい?」
「俺の稼ぎもお前とたいして変わらん」
忙しなく髪の毛を拭うお理津は、久間に負けないくらい減らず口を叩く。
「嫌だねぇ貧乏話は。アタイだって芸事のひとつでも覚えてりゃ、遊廓でもっと稼いでやるんだけどねえ」
「お前の不器用は生まれつきだからな」
与兵衛を睨み付けるも一瞬。すぐさま甘い声で囁く。
「でもね、男をよろこばせる事にかけちゃ、誰にも負けやしないよ」
「こら! そこの傘はまだ乾いておらん!」
「んっもぉぉぉ、狭い狭い狭いっ! こんな傘だらけの部屋だから……」
朱色の花が咲き乱れる六畳間、小さな拳で膝をだむだむと叩く。そんな姿を見て、与兵衛は微笑むのである。
薄暗い中で糊を仕舞い、乾いている傘を畳んでまとめあげる。お理津は雑穀を炊き、梅干しと漬物で質素な食卓を作る。そして、いよいよ何も見えなくなってから火は灯された。菜種油も安くはない。
「聞いたか? お理津。昨晩辻斬りが出たそうだ」
「物騒だねえ」
「他人事のように言うでない」
二人はメシを平らげると、酒を酌み交わす。
「アタイの事、心配かい?」
「……」
答えず、黙って杯を突き出す。
「刀で斬られるか飢え死にするかの違いじゃないか」
「酔ってるのか?」
「このくらいじゃ酔いやしないよ。さて、と、雨も止んだみたいだ。アタシゃそろそろ行くよ」
「俺も出来上がった傘を納めに行かねばならん。そこまで送る」
雲の切れ間から少し欠けた月が顔を覗かせている。湿った風に柳が揺れれば、緑の匂いが鼻孔をくすぐる。通りはぬかるみ。
「その辺の道ばたまでだってのに送られるなんて、変な話だよう」
「ついでだ。夜が更けたら夜露を凌ぎにまた来るといい」
蛙の代わりに虫の声。二人は水溜まりを避けながら歩く。
「こんな日は八幡さまの軒の下ぐらいでしか出来ないねえ」
「罰当たりめが」
「このあたりでいいよ」
八幡社の手前。橋を渡れば武家屋敷が建ち並ぶ。莚を抱えたお理津は物陰の闇溜まりへと姿を消した。
やや歩くと、町屋の先に提灯が揺れている。闇を透かして見れば、それは久間だった。
「夜の見廻りかい?」
「おお、与兵衛か。まぁな、これもお役目さ。お前様は?」
「仕上がった傘を納めに行くところさ。雨が止んで良かった」
「良かないさ。屋敷でゆっくり杯でも傾けてるつもりだったのによ」
その時である。今、与兵衛が歩いて来た方角から叫び声のような物が上がった。
「なんだ?」
久間が呟いた時、与兵衛は既に走り出していた。橋を渡り八幡社の手前。月明かりの下、泥まみれのお理津と、刀を振りかざす一人の浪人。
「待てぃ!」
その時を与兵衛の一喝が止めた。
「貴様はあれか、世を騒がせている辻斬りと言う奴か」
「!?」
「お理津、大丈夫か?」
通りの真ん中に倒れるお理津に声を掛ける。幸いにも斬られてはいない。
「い、いきなりコイツが斬りかかってきたんだよ!」
「俺の家に逃げていろ」
「ア、アンタこそ逃げなよ! アンタ、人斬った事なんて無いんだろ!?」
鳥居の下で刀を構えていた影が、にわかに与兵衛のほうを向いた。
「……どこの誰ぞ知らんが、邪魔立てするなや。たかが夜鷹の一匹ぐれぇで」
流れ者だろうか、深編笠の下から聞こえる声には多少の訛りが含まれている。
「そうはいかぬ」
言いながら与兵衛は、束ねてあった傘からその一本を抜き取り、そして残りの束を投げ捨てた。
「与兵衛!」
後を追って駆け付けた久間が叫ぶ。しかし、その時彼は既に動いていた。
泥を跳ね上げながら一直線に浪人へと向かってゆく。左手には朱色の傘。
ぴしゃ
浪人は左足を半歩前へと摺り足。雨よりも冷たい笑みを口元に浮かべながらの右、上段の構え。その動きには無駄が無く、かなりの手練れであることが窺える。虫たちも沈黙する朱塗りの鳥居の下。
ばばっ!
大輪の花が咲き、浪人の視界が朱に塗り潰された。が、うろたえも一瞬、構わす振り下ろされる一閃。だがしかし、手応えもなく傘を両断。
「ぐはっ」
刃を上に向けた刀が背に、貫かれぬまま突き立てられていた。その柄には腰を落とし、前のめりの与兵衛。浪人の頭から深編笠が音も無く落ちる。
「なまくらも、役には立ったか」
抜けない刀を手放し立ち尽くす与兵衛と、背にその錆の浮いた刀が刺さったまま、俯せに倒れる浪人。
そして、張り詰めた時が再び動き出したかのように、いきなりの豪雨。それは噴き出した血を洗い浄めるかのよう。
「与兵衛!」
駆け付ける久間に与兵衛は顔を上げた。
「たまには刀の手入れもせんと、いかんな」
「ふっ、ははははっ! そうよ、お前様は傘ばかりだからいけねぇ」
「まぁいいさ、俺は傘貼りが好きなんだからな」
橋の袂に転がる傘の束を拾い、抱えた束からまた一本抜き取りお理津のもとへ。
「帰ろう」
言いながら傘を開く。お理津は黙って頷き、その下に入り寄り添う。久間の見送る中、朱色の傘が雨に煙ってゆくのであった。
ー完ー
※この話を元に長編官能小説を書きフランス書院文学賞に送って見事落選したのがこちら。(十八歳未満閲覧禁止)
2017年09月14日
さんまの煙
濡れ縁に雀。朝陽を浴びて夜露に濡れた羽を乾かす。やがて障子が開け放たれ、驚いた雀は抜けるような空へと、高く飛び立って行った。
日溜まりだけが残された濡れ縁に白い足。着崩れた真紅の下衣から顔を出したその脚を、ぼりぼりと掻く。大きく伸びをしながら大あくび。
「でかい口だなぁ」
お理津は部屋の中からの眠たげな声に振り返り、微笑みを浮かべた。
「いつまで寝てんだい。もう朝だよ」
「……んー」
もぞもぞと蠢く蒲団の傍に戻り、顔だけを出して簑虫になっている与兵衛を揺すった。
「……昼まで寝させろ」
「アンタ毎日こんな生活してたら腐っちまうよう」
蒲団を剥げば眉間に皺を寄せる与兵衛がお理津を睨み付ける。が、全く意にも介さずにその胸板へと顔を埋めた。
「こ、こら、くっつくでない」
「いいじゃないか。つれないお人だねえ」
三坪六畳間。部屋の半分は内職の傘に埋め尽くされている。二度寝を許されぬ与兵衛は観念したか、床から這い出るのであった。
「あら与兵衛さん、今日は珍しく早いじゃないか」
くたびれた弁髪もそのままに、傘の束を抱えて出てきた彼に声を掛けたのは長屋の奥、井戸端に群がる女房たちの一人。
「まぁ、たまにはな」
「朝早いのはいいけどアンタ、頭ぼさぼさじゃないか」
「いいのさ。別にお城に上るわけでもねえし」
「そんなんだから嫁もきないんだよう」
「大きなお世話だ」
そう言って自嘲気味に短く笑うと、照れ臭さを残しその場を退散した。
「……あれで夜鷹なんか連れ込んだりしなきゃ、いい男なんだけどねぇ」
与兵衛の姿が見えなくなるなり、声を小さくして囁き合う女房たち。
「まったくだよぉ。昼行灯な所もさ、きっとあの夜鷹に毒されてんだよ」
みな一様に苦虫を潰したような顔。と、その時。
「!」
音を立てて木戸を勢い良く開けたお理津。井戸端を睨み付けるも、女房たちはすでに顔を附せ、洗濯を始めていた。
「イーーッ」
莚を片手に、彼女は長屋を出て行った。
夜鷹の客は武士が多い。それも与兵衛のような下士。羽振りのいい商人や上士たちは遊廓に通うのだ。お理津は河原の道を歩いた。抜けるような青空。日が高いうちでも女を抱こうとする男は居る。
「旦那」
声を掛けたのは釣糸を垂れる一人の侍。ちらりとお理津の方を見るが、すぐに川面へと視線を戻す。
「釣れなさるかい?」
「ふん、からっきしさ」
「だったらアタイなんか釣ってみたらどうだい?」
男は再びお理津を見た。落ち窪んだ目で足元から顔に掛け、値踏みするかのようにゆっくりと視線を動かす。
――釣られるのはアンタの方だよ――
お理津は笑みを浮かべながら、餌をちらつかせるように袂を捲って見せた。左手で額に日差しを作り、食い入るように眺める男。やがてその左手で裾の中を拝み、次の瞬間にはお理津を葦の林へと押し倒していた。糸が引かれ、河原に棄てられた竿がしなる。
与兵衛は傘問屋で張り替えた傘の束を手渡すと、代わりに破れた古傘と僅かな手間賃を受け取った。店を出るとまだまだ強い日射し。軒先で水を撒いている小姓が軽く会釈をする。与兵衛は左手でそれに応え大通りを寺町の方へと歩きだした。
「はて」
垣根から煙。乾いた風に運ばれて与兵衛の身に纏わり付き、脂の焼ける香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。依然もうもうと立ち昇る煙は、そのまま遥か高い秋空へと消えて行った。
「秋刀魚か。河岸にでも寄って行くか」
同じ空の下、生い茂る葦の中でお理津は仰向けになり空を見上げていた。畜生道に墜ちた身からすれば、なんと空の高きことか。底無しの空に漂う浮遊感は、果たして死んだらこんな感じなんだろうかと思わせた。
手の中のチャリチャリとした感触が、お理津を現実へと繋ぎ止めている。
「いてて……」
莚を敷いても河原の石は背中に刺さる。彼女は傷めた体を起こし、岸部にしゃがんで川の水で体を濯いだ。
芸のひとつも覚えられれば、遊廓にも入れただろう。が、いずれも地獄に変わりは無い。
「また旦那のところにでも転がり込もうかねえ」
死ねない理由はただひとつ。自分が生きている事を許してくれる人がいるからだ。
空が少し赤く染まり始め、遠くの山に帰る烏の声。長屋の入り口で理津は足を止めた。
「なんだい、この煙は」
腹を鳴らす煙。その香ばしい匂いに誘われて行けば、与兵衛の家に辿り着いた。開け放たれた木戸を潜ると、裏手から煙が通り抜ける部屋の中。
「ちょっとちょっと、すごい煙じゃないか!」
「おう。お理津か。そろそろ来るんじゃないかと思ってな。丁度焼けた所だよ」
部屋を抜けると、狭い庭先で七輪を前に団扇を持った与兵衛。煙の中から笑顔が覗いた。
「ちょ、こんな狭い庭で魚なんて焼くんじゃないよ。部屋ん中まで煙だらけじゃないか!」
「脂の乗ったいい秋刀魚があってなぁ」
「人の話聞いてないだろう」
七輪には狐色に焼き上がった秋刀魚が二尾。与兵衛の隣にしゃがみ込むお理津。その目からは涙が留めどもなく、零れ落ちていた。
「どうした?」
「煙が、滲みて……しょうがないよ……」
夕暮れ時も随分と肌寒くなった。七輪の火は、そんな二人の体を暖めてくれた。
ー完ー
日溜まりだけが残された濡れ縁に白い足。着崩れた真紅の下衣から顔を出したその脚を、ぼりぼりと掻く。大きく伸びをしながら大あくび。
「でかい口だなぁ」
お理津は部屋の中からの眠たげな声に振り返り、微笑みを浮かべた。
「いつまで寝てんだい。もう朝だよ」
「……んー」
もぞもぞと蠢く蒲団の傍に戻り、顔だけを出して簑虫になっている与兵衛を揺すった。
「……昼まで寝させろ」
「アンタ毎日こんな生活してたら腐っちまうよう」
蒲団を剥げば眉間に皺を寄せる与兵衛がお理津を睨み付ける。が、全く意にも介さずにその胸板へと顔を埋めた。
「こ、こら、くっつくでない」
「いいじゃないか。つれないお人だねえ」
三坪六畳間。部屋の半分は内職の傘に埋め尽くされている。二度寝を許されぬ与兵衛は観念したか、床から這い出るのであった。
「あら与兵衛さん、今日は珍しく早いじゃないか」
くたびれた弁髪もそのままに、傘の束を抱えて出てきた彼に声を掛けたのは長屋の奥、井戸端に群がる女房たちの一人。
「まぁ、たまにはな」
「朝早いのはいいけどアンタ、頭ぼさぼさじゃないか」
「いいのさ。別にお城に上るわけでもねえし」
「そんなんだから嫁もきないんだよう」
「大きなお世話だ」
そう言って自嘲気味に短く笑うと、照れ臭さを残しその場を退散した。
「……あれで夜鷹なんか連れ込んだりしなきゃ、いい男なんだけどねぇ」
与兵衛の姿が見えなくなるなり、声を小さくして囁き合う女房たち。
「まったくだよぉ。昼行灯な所もさ、きっとあの夜鷹に毒されてんだよ」
みな一様に苦虫を潰したような顔。と、その時。
「!」
音を立てて木戸を勢い良く開けたお理津。井戸端を睨み付けるも、女房たちはすでに顔を附せ、洗濯を始めていた。
「イーーッ」
莚を片手に、彼女は長屋を出て行った。
夜鷹の客は武士が多い。それも与兵衛のような下士。羽振りのいい商人や上士たちは遊廓に通うのだ。お理津は河原の道を歩いた。抜けるような青空。日が高いうちでも女を抱こうとする男は居る。
「旦那」
声を掛けたのは釣糸を垂れる一人の侍。ちらりとお理津の方を見るが、すぐに川面へと視線を戻す。
「釣れなさるかい?」
「ふん、からっきしさ」
「だったらアタイなんか釣ってみたらどうだい?」
男は再びお理津を見た。落ち窪んだ目で足元から顔に掛け、値踏みするかのようにゆっくりと視線を動かす。
――釣られるのはアンタの方だよ――
お理津は笑みを浮かべながら、餌をちらつかせるように袂を捲って見せた。左手で額に日差しを作り、食い入るように眺める男。やがてその左手で裾の中を拝み、次の瞬間にはお理津を葦の林へと押し倒していた。糸が引かれ、河原に棄てられた竿がしなる。
与兵衛は傘問屋で張り替えた傘の束を手渡すと、代わりに破れた古傘と僅かな手間賃を受け取った。店を出るとまだまだ強い日射し。軒先で水を撒いている小姓が軽く会釈をする。与兵衛は左手でそれに応え大通りを寺町の方へと歩きだした。
「はて」
垣根から煙。乾いた風に運ばれて与兵衛の身に纏わり付き、脂の焼ける香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。依然もうもうと立ち昇る煙は、そのまま遥か高い秋空へと消えて行った。
「秋刀魚か。河岸にでも寄って行くか」
同じ空の下、生い茂る葦の中でお理津は仰向けになり空を見上げていた。畜生道に墜ちた身からすれば、なんと空の高きことか。底無しの空に漂う浮遊感は、果たして死んだらこんな感じなんだろうかと思わせた。
手の中のチャリチャリとした感触が、お理津を現実へと繋ぎ止めている。
「いてて……」
莚を敷いても河原の石は背中に刺さる。彼女は傷めた体を起こし、岸部にしゃがんで川の水で体を濯いだ。
芸のひとつも覚えられれば、遊廓にも入れただろう。が、いずれも地獄に変わりは無い。
「また旦那のところにでも転がり込もうかねえ」
死ねない理由はただひとつ。自分が生きている事を許してくれる人がいるからだ。
空が少し赤く染まり始め、遠くの山に帰る烏の声。長屋の入り口で理津は足を止めた。
「なんだい、この煙は」
腹を鳴らす煙。その香ばしい匂いに誘われて行けば、与兵衛の家に辿り着いた。開け放たれた木戸を潜ると、裏手から煙が通り抜ける部屋の中。
「ちょっとちょっと、すごい煙じゃないか!」
「おう。お理津か。そろそろ来るんじゃないかと思ってな。丁度焼けた所だよ」
部屋を抜けると、狭い庭先で七輪を前に団扇を持った与兵衛。煙の中から笑顔が覗いた。
「ちょ、こんな狭い庭で魚なんて焼くんじゃないよ。部屋ん中まで煙だらけじゃないか!」
「脂の乗ったいい秋刀魚があってなぁ」
「人の話聞いてないだろう」
七輪には狐色に焼き上がった秋刀魚が二尾。与兵衛の隣にしゃがみ込むお理津。その目からは涙が留めどもなく、零れ落ちていた。
「どうした?」
「煙が、滲みて……しょうがないよ……」
夕暮れ時も随分と肌寒くなった。七輪の火は、そんな二人の体を暖めてくれた。
ー完ー
2017年09月14日
桜の里
「もはや、これまでか」
優しい雨が新芽を潤す。土を葉を静かに叩く雨音は、生温い風に乗って平太の耳へと届けられる。
それは夜明け前の奇襲だった。叩き起こされた時には既に敵勢が本丸の足下へと迫り、迎え討つ間もなく城には火が放たれ、よもや皆、落ちる外に道は無かった。
命からがら逃げ落ちた平太は峠を越えたところで力尽きた。肩口には刀傷を負い、血は止まらず。立ち昇る煙はもはや遠く、あるいは降り始めた雨が火を鎮めているやも知れない。
木々の合間から覗く雨雲を眺め、顔も濡れるがままの彼であったが、ぐしゃり、と草を踏む音に身を起こした。獣か、と身構えるも、梢の陰から現れたのは意外、一人の女。
「なんと、斯様な山奥にも人里があるのか」
女は平太がまだ生きている事に驚き、再び梢の陰へと隠れてしまう。
「なかなか。まだ往生には早いと言うか。女。すまぬが助けてくれんか」
ほう被りからはみ出した髪が、濡れ細って広い額に貼り付いている。そろりと覗かせたその顔は、まだ娘と呼べる若さであった。
「近くに里があるのだな。養生させてはくれぬか。なに、見ての通り悪事も何も出来やせん」
「あなた様は?」
「俺は平太。足軽風情だが城下じゃ名の通った槍使いさ」
「……蔓谷の小夜と申します」
「かずらたにか。聞いた事も無いな」
尾根を越えれば棚田の広がる斜面で、谷底には十戸ほどの萱葺き屋根が肩を寄せ合っていた。山を越えねば街道にすら出られぬような隠れ里。だが、人の気配は押し殺されているようで、いずれも固く戸を閉している。
「出迎えも、無しか。まぁいい、とにかく傷を洗いたい」
家々の軒先や庭先には桜の巨木が立ち並んでいる。
「みな見事な桜木だな」
「はい、咲けば里は桜色となります」
小夜は中でも比較的大きな家の前で止まった。
「傷が癒えれば出ていく。暫し、厄介させてもらうぞ」
「遠慮はいりません。ゆっくりしていかれてください」
時は戦乱。百姓の生活は困窮を極めているはず。だのに彼女は疎んじないばかりか笑みすら浮かべている。が、なにより命拾いした事への安堵が彼の思慮を満たしていた。
縁側から望める山肌の、そこかしこに山桜。山肌を舐める靄は、やがて花を一斉に咲かせるであろう。水を張ったタライに雫が落ちる。
「なにを見ている」
平太は、肩口に負った刀傷を湿らせた布巾で拭ってもらいながら、ずっと背中に熱っぽい視線を感じ続けていた。
「いえ、ごめんなさい。この村では殿方が珍しいものですから」
拭っては布巾をタライの水に浸し、軽く搾ってはまた拭う。ごとに赤黒く凝固した血が溶けだし、タライの水を赤く染めてゆく。
「男手に困っているのか」
「いいえ。困っているのは寧ろ、その、子種の方で……」
久しく童子に恵まれてないのだろうか。それは養子や婿などに来てもらえぬような山深き里では死活問題である。
「はは、種蒔きばかりは男手が必要という訳か。命を助けた代わりに、俺の子種をくれとでも言うか」
小夜は頬を染めながら目を伏せ、何も答えないまま土間へと降りて行った。
「さ、これをお飲みになって。傷が早く癒えますゆえ」
戻るなり差し出さしたのは、磨り潰した木の皮を煎じた薬湯だった。一瞬、平太は手を止め小夜を見る。そこには微笑み混じりにただ見詰め続ける眼差し。
「かたじけ……ないな」
優しく降り続く雨音が、戸板の隙間から流れ込む。やがて雨曇りの空は闇へと染っていった。菜種油などは贅沢なもので、月の隠れる夜はひたすらに闇。
「花の香りがするな」
「ふふ」
この蔓谷に入った時から違和感を抱き続け、ながらも平太はただ欲されるまま、この謎めいた小夜の甘い妖気とでも言うべきものに身を沈めていった。
「よいのだな」
「はい……」
薬湯のせいか傷は不思議と痛まず。奇妙な事に、腹も減らず。甘い吐息と香りの中で、平太は欲望にただ身を委ねた。
やがて静寂が訪れても、外はまだ雨が降り続いている。ふと立ち上がる気配とともに、遠ざかる足音。
「どこへゆく」
「平太様。小夜はしあわせでございます」
戸板が音を立てた。かと思えば、生暖かい夜気とともに流れ込む、消え入りそうな雨音。そして近づく、軽い足音。闇の中で甘い吐息が、平太の顔を撫ぜる。
「小夜……ではないな! 何者!」
「わたくしにも、子種を分けてくださいまし」
平太は覚った。夜這いをされているのだと。だがしかし、くらやみの中で精力はみなぎるばかりで、抗うことも忘れ。
彼にとって、これほど夜を長く感じた事は無かった。果てたかと思えばまた違う女が褥(しとね)に潜り込み、だが体は疲れを知らぬ。そして何度も違う女と行為を重ねてゆく内に、自らがただ使われているに過ぎないと気付く。脳裏に、飲まされた薬湯がよぎる。
「どうなされました」
五人目を抱きながら、平太は動きを止めた。
「俺はこのまま殺されるのかと、な。だとしても所詮拾った命だ。好きにするがいいさ」
「なにをおっしゃいます。あなた様はこの里に再び命を吹き込まれたのです。あなた様には蘇ったこの里を、見て貰わねばなりませぬ」
この地で生きよ、と言うか。それもまたよし。と、平太は思った。守るべき君主も帰るべき場所も、もはやないのだ。そして力の続く限り、彼は何人もの女を抱き続けた。
陽射しがじりじりと平太の足元を照らす。暗く沈んだ天井にぽかり、青い空が顔を覗かせている。鉛のような体をどうにか起こした平太は、我が目を疑った。
崩れた梁に蜘蛛の巣。破れた襖の向こうに緑。湿り気を帯びた畳は腐っているのか、着いた手が僅かに沈む。
「なんだこれは」
夢でも見ていたのか、はたまた狐にでも摘まれたのか、部屋は何年も人が住んでいないような廃屋。しかしこの疲労感と何も纏わぬ我が身が、昨夜の名残を思わせる。ふと、胸元に貼り付いた桜の花弁を見やり、彼は表に駆け出した。
「おお……」
晴れ渡った空へと力強く伸ばした枝には、一夜にして満開の桜。崩れかけた家々の軒先全てが桜色に染まり、生命力にみちみちている。暖かな風が運ぶ甘い香りは、昨夜の褥をありありと思い出させた。昨日見た景色は幻惑か、里は廃村と化している。
「平太様のおかげでございます」
不意の声に振り返れば、桜木の前に人影。
「小夜」
「この里はとうの昔、滅んでしまいました。以来、見る者を失ったこの里の桜は、みな永きに渡って咲く事を忘れていたのです。もはや枯れて朽ちるのを待つばかりと、でも、あなた様が命を吹き込んでくださった」
「お前は、いったい……」
「ご覧ください。私たちの艶姿を」
小夜の影は薄くなり、やがて春の風に溶けていった。そしてその風が谷を疾り、一斉に花弁を散らし始める。
繚乱からたちまち乱舞。忘れ去られた里を桜吹雪が覆い尽くす。平太はその中に小夜の、そして女たちの笑い声を聞いた。
ー完ー
※この作品をアダルト全開で書き直したものがこちらです。
優しい雨が新芽を潤す。土を葉を静かに叩く雨音は、生温い風に乗って平太の耳へと届けられる。
それは夜明け前の奇襲だった。叩き起こされた時には既に敵勢が本丸の足下へと迫り、迎え討つ間もなく城には火が放たれ、よもや皆、落ちる外に道は無かった。
命からがら逃げ落ちた平太は峠を越えたところで力尽きた。肩口には刀傷を負い、血は止まらず。立ち昇る煙はもはや遠く、あるいは降り始めた雨が火を鎮めているやも知れない。
木々の合間から覗く雨雲を眺め、顔も濡れるがままの彼であったが、ぐしゃり、と草を踏む音に身を起こした。獣か、と身構えるも、梢の陰から現れたのは意外、一人の女。
「なんと、斯様な山奥にも人里があるのか」
女は平太がまだ生きている事に驚き、再び梢の陰へと隠れてしまう。
「なかなか。まだ往生には早いと言うか。女。すまぬが助けてくれんか」
ほう被りからはみ出した髪が、濡れ細って広い額に貼り付いている。そろりと覗かせたその顔は、まだ娘と呼べる若さであった。
「近くに里があるのだな。養生させてはくれぬか。なに、見ての通り悪事も何も出来やせん」
「あなた様は?」
「俺は平太。足軽風情だが城下じゃ名の通った槍使いさ」
「……蔓谷の小夜と申します」
「かずらたにか。聞いた事も無いな」
尾根を越えれば棚田の広がる斜面で、谷底には十戸ほどの萱葺き屋根が肩を寄せ合っていた。山を越えねば街道にすら出られぬような隠れ里。だが、人の気配は押し殺されているようで、いずれも固く戸を閉している。
「出迎えも、無しか。まぁいい、とにかく傷を洗いたい」
家々の軒先や庭先には桜の巨木が立ち並んでいる。
「みな見事な桜木だな」
「はい、咲けば里は桜色となります」
小夜は中でも比較的大きな家の前で止まった。
「傷が癒えれば出ていく。暫し、厄介させてもらうぞ」
「遠慮はいりません。ゆっくりしていかれてください」
時は戦乱。百姓の生活は困窮を極めているはず。だのに彼女は疎んじないばかりか笑みすら浮かべている。が、なにより命拾いした事への安堵が彼の思慮を満たしていた。
縁側から望める山肌の、そこかしこに山桜。山肌を舐める靄は、やがて花を一斉に咲かせるであろう。水を張ったタライに雫が落ちる。
「なにを見ている」
平太は、肩口に負った刀傷を湿らせた布巾で拭ってもらいながら、ずっと背中に熱っぽい視線を感じ続けていた。
「いえ、ごめんなさい。この村では殿方が珍しいものですから」
拭っては布巾をタライの水に浸し、軽く搾ってはまた拭う。ごとに赤黒く凝固した血が溶けだし、タライの水を赤く染めてゆく。
「男手に困っているのか」
「いいえ。困っているのは寧ろ、その、子種の方で……」
久しく童子に恵まれてないのだろうか。それは養子や婿などに来てもらえぬような山深き里では死活問題である。
「はは、種蒔きばかりは男手が必要という訳か。命を助けた代わりに、俺の子種をくれとでも言うか」
小夜は頬を染めながら目を伏せ、何も答えないまま土間へと降りて行った。
「さ、これをお飲みになって。傷が早く癒えますゆえ」
戻るなり差し出さしたのは、磨り潰した木の皮を煎じた薬湯だった。一瞬、平太は手を止め小夜を見る。そこには微笑み混じりにただ見詰め続ける眼差し。
「かたじけ……ないな」
優しく降り続く雨音が、戸板の隙間から流れ込む。やがて雨曇りの空は闇へと染っていった。菜種油などは贅沢なもので、月の隠れる夜はひたすらに闇。
「花の香りがするな」
「ふふ」
この蔓谷に入った時から違和感を抱き続け、ながらも平太はただ欲されるまま、この謎めいた小夜の甘い妖気とでも言うべきものに身を沈めていった。
「よいのだな」
「はい……」
薬湯のせいか傷は不思議と痛まず。奇妙な事に、腹も減らず。甘い吐息と香りの中で、平太は欲望にただ身を委ねた。
やがて静寂が訪れても、外はまだ雨が降り続いている。ふと立ち上がる気配とともに、遠ざかる足音。
「どこへゆく」
「平太様。小夜はしあわせでございます」
戸板が音を立てた。かと思えば、生暖かい夜気とともに流れ込む、消え入りそうな雨音。そして近づく、軽い足音。闇の中で甘い吐息が、平太の顔を撫ぜる。
「小夜……ではないな! 何者!」
「わたくしにも、子種を分けてくださいまし」
平太は覚った。夜這いをされているのだと。だがしかし、くらやみの中で精力はみなぎるばかりで、抗うことも忘れ。
彼にとって、これほど夜を長く感じた事は無かった。果てたかと思えばまた違う女が褥(しとね)に潜り込み、だが体は疲れを知らぬ。そして何度も違う女と行為を重ねてゆく内に、自らがただ使われているに過ぎないと気付く。脳裏に、飲まされた薬湯がよぎる。
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五人目を抱きながら、平太は動きを止めた。
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この地で生きよ、と言うか。それもまたよし。と、平太は思った。守るべき君主も帰るべき場所も、もはやないのだ。そして力の続く限り、彼は何人もの女を抱き続けた。
陽射しがじりじりと平太の足元を照らす。暗く沈んだ天井にぽかり、青い空が顔を覗かせている。鉛のような体をどうにか起こした平太は、我が目を疑った。
崩れた梁に蜘蛛の巣。破れた襖の向こうに緑。湿り気を帯びた畳は腐っているのか、着いた手が僅かに沈む。
「なんだこれは」
夢でも見ていたのか、はたまた狐にでも摘まれたのか、部屋は何年も人が住んでいないような廃屋。しかしこの疲労感と何も纏わぬ我が身が、昨夜の名残を思わせる。ふと、胸元に貼り付いた桜の花弁を見やり、彼は表に駆け出した。
「おお……」
晴れ渡った空へと力強く伸ばした枝には、一夜にして満開の桜。崩れかけた家々の軒先全てが桜色に染まり、生命力にみちみちている。暖かな風が運ぶ甘い香りは、昨夜の褥をありありと思い出させた。昨日見た景色は幻惑か、里は廃村と化している。
「平太様のおかげでございます」
不意の声に振り返れば、桜木の前に人影。
「小夜」
「この里はとうの昔、滅んでしまいました。以来、見る者を失ったこの里の桜は、みな永きに渡って咲く事を忘れていたのです。もはや枯れて朽ちるのを待つばかりと、でも、あなた様が命を吹き込んでくださった」
「お前は、いったい……」
「ご覧ください。私たちの艶姿を」
小夜の影は薄くなり、やがて春の風に溶けていった。そしてその風が谷を疾り、一斉に花弁を散らし始める。
繚乱からたちまち乱舞。忘れ去られた里を桜吹雪が覆い尽くす。平太はその中に小夜の、そして女たちの笑い声を聞いた。
ー完ー
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2017年09月14日
煙草屋の角
煙草屋って、なんで決まって角にあるんだろう。四丁目の角にも煙草屋がある。木造二階建の小ぢんまりとした建物で、高層ビルに挟まれアスファルトと大理石でできた街の中、『たばこ』と白抜きされた赤い看板が目立つ。その古さときたら映画のセットであるかのような、いや寧ろ一人娘のキィちゃんが昭和のキネマ女優のようで。
「どうかしました?」
「あ。いや。別に」
煙草屋とは言ってもパンに牛乳、いつ入荷したのか分からない洗剤とか。それは何しろ僕がこの街で働き始めた頃から、ずっと置いてあったような気がする。
「ゴロワーズひとつ」
「はーい、ありがとうございまーす」
歳の頃は二十代半ばといったところだろうか。全く化粧をせず、そばかすもそのまま。それでも近所で働くサラリーマンたちの間では意外と人気が高かった。ハイヒールの音高らかに、口紅とマスカラで武装したOLたちに囲まれて仕事していると、それがかえって新鮮に思えるのだろうか。しかし母親のモンペを履いて出て来た時は、さすがに皆を仰け反らせた。
「暑いね」
「ほんと、暑いですね」
気温は年々上がる一方。すでに骨董品とも言える扇風機は窓口に座りきりのオバチャンが独占しており、娘のキィちゃんの白い額には汗の粒がたくさん吹き出ている。
「相変わらず暇そうだね」
「ええ、暇なんです」
襟足を掻く僕。話が続かない。
「コーヒー牛乳もらうよー」
「あ、はーい」
僕と同じようなサラリーマンが割って入ると、彼女は僕に向ける笑顔と同じ笑顔で接客する。
「お金ここに置いとくね」
言い残し僕は、三百円を置いて去った。
仕事帰り、夕方になって急に崩れだした空模様。西の空は明るいのに頭の上は鼠色。と、上を向いていたらポツリ、ポツリ。
雨? と思うやいなや歩道に斑点が広がり、やがて文字通りバケツをひっくり返したような、突然の夕立ち。僕は合成皮の鞄をかざして走り出した。煙るアスファルト。真横からのみ照らされた街並みはどこか現実離れしていて、やがてその色の無いグラデーションの中に浮かび上がってくる赤い看板。
「すごい雨だねぇ。あらやだずぶ濡れじゃないのサ」
思わず飛び込んだ店先では、オバチャンが早めの店仕舞いをしていた。
「ひゃぁ参りましたよ。まぁ、どうせ夕立ちだろうけど」
「ちょっと待ってな。希代美、タオル持っといで」
「あ、はい」
店の奥から出て来たキィちゃんから白いタオルを受け取ると、彼女はそのまま傘を差して雨の中へ。
「雨、止むまで中で休んできなよ」と、お節介なオバチャンは戸板をレールにはめる。
「いや、でも」とは言え雨音は激しさを増すばかり。
「いいから。そんなトコ突っ立ってたらまーたビショビショんなっちゃうよ」
店の奥には、水色のタイルが時代を感じさせる小さな流し台がある。その脇にある狭くて急な階段を昇れば、恐らく居間や寝室があるんだろう。僕は店と台所を仕切るカマチに、肩を竦めて腰を下ろした。
「ボロい家だろう?」
「いえ、そんな」
「もう、築五十年……近く経ってるからね……いつ倒れても……おかしくないくらい……だよ。はぁ」
息を切らしながら軋む階段を昇るのも辛そうだ。入れ替わるように裏手の勝手口から、尻を濡らしたキィちゃんが戻って来た。
「自販機?」
「うん、お金の回収」
トントン、と、土間で傘の水を払う。裸電球の薄暗い明かりの中、濡れた前髪が額に張り付いている。彼女の開けた冷蔵庫の中がやけに明るいな、と感じていると、目の前でよく冷えた麦茶が注がれた。
「男物のシャツでもあれば貸したげたいんだけど、無いんだよねー」
と、その時鳴り響いた雷鳴に、抱きついて来たりはしない。そんなことはない。
「やだ、雷?」
もっと近ければいいのに、なんて。彼女のことが気になる、興味を持っている、なんて、そんな中途半端な想いを抱き始めたのはいつの頃からか。
僕は外の様子を伺ってみようと、勝手口を開けてみた。瞬間、閃光に青白く照らし出される台所。
「傘貸すね。あ、でも、もう少し小降りになるま……」
キィちゃんの言葉を、遅れて轟く雷鳴が遮った。びくりと彼女は肩を竦める。
「僕ね、来週転属になるんだ。今更新宿の本社に栄転」
「え? あ、そうなんだ……良かったじゃないですか」
キィちゃんのこの笑顔も見れなくなるのだ。しかし、逆に考えればもう顔を合わせなくて済む。そう、例えば今ここで彼女に告白して振られたとしても、気まずさや居心地の悪さは感じなくて済む。想像しただけで背中から胸の辺りまでが疼き、どこか重くなるような感覚。例えばの話だ。それでも、どうせこれっきりと言う思いが僕の背中を押した。
「その……転勤になる前にひとつだけ、言い残してる事、あんだけどさ」
キョトンとした上目遣いに息が詰まりそうだ。
「その、俺と付き合って、貰えないかなぁ、なんてさ」
やっちゃったよ。しかも直球だよ。
「あの、なんていうか、その、キィちゃんの笑顔、ずっと見てられたらな、なんて……」
「あ……ごめん。その……今、好きな人がいて」
ああっ!
「別に、付き合ってる訳じゃないんだけどね、うん……あ。でも、嬉しいよ。とっても」
「ハハ」
「その、前はあなたの事、いいかなって思ってたけど」
痛い。
「ご、ごめんね。でも、ありがとう。ほんとに」
よく喋る。だが既に彼女の言葉はほとんど耳には届かない。僕はただ板の間の木目を見つめていた。
「そっか。ハハ…………少し、小降りになってきたみたいだな。今のうち帰るか」
「あ、そこの傘持ってって」
傘を開けば桔梗模様。恥ずかしいくらいのオバチャン傘だ。しかし傘の柄には微かな温もり。
「あ、でも、また来てくださいね」
来る機会なんて無いだろう。それ以前に、気まずくて来れないと思う。
「あ、ちょっと待って」
雨が傘を叩いた時、突然彼女が僕を引き止めた。
「最後に、握手!」
ギュッ♪
少し湿った小さな温もりが僕の心にとどめを刺した。
思い出したかのような薄暮が、濡れたビルを、アスファルトを照らす中、僕はまだ止まぬ小雨に向かって駆け出した。逃げ出すように。なぜだろう、笑いが込み上げて来て止まらない。色んな感情が溢れ出して、それを覆ってしまわんばかり狂ったように笑う。
別れる間際。いつも人々を和ませていた彼女の微笑が消え、その目が少し潤んでた事に僕は気づいた。それを見て僕はひどく後悔している。最後にこんな爆弾落として行くなんて。彼女を傷つけてしまったかも知れないと。しかし、言わずに去ってもきっと僕は後悔しただろう。
だけど今は、滲む涙を雨で誤魔化しながら、笑って走るしかないのだ。
ー完ー
2017年09月14日
避難勧告
※某ネット小説イベント(バトル仮面舞踏会)に投稿した短編です。
条件 縛りとして『登場人物の誰か一人がヅラである事』。1600字以内。
超大型と言われる台風十三号は潮岬を掠め、紀伊半島の南海上を通過していた。このままの進路を辿れば関東を直撃すると予想される。
下町の零細企業にとってはキャンセル料も勿体無いと、慰安旅行を強行したのは眞島であった。もっとも、社長という肩書きを持つ彼を責められる者など居なかった。この津村慶子を除いては。
「だから延期しようって言ったんですよ」
「いや、しかしだね……」
「まぁまぁ津村くん、今更そんな事言ったって、しょうがないじゃない」
「部長は黙ってて下さい」
その迫力に押され、間に割って入った桐島は直ぐさま社長の陰へと隠れてしまった。
「まあ落ち着きたまえ、津村くん。あんまり怒るとまた小皺が増え……ま、待ちなさい、鈍器は良くない」
伊豆半島の突端。石廊崎は台風の直撃をまず免れないだろう。すでに外は暴風域。そんな中、大広間では社長以下五人の男たちが呑気に宴もたけなわ。
「さっき高波の恐れがあるって、避難勧告まで出されたんですよ」
「大袈裟だなぁ先輩。たかが台風じゃないっスかぁ」
「あんたまで……」
津村の部下である吉田までも言う事を聞かない始末。彼女にしてみれば裏切られた気分である。
「しかしなぁ、こんな時に建物から出たら、かえって危ないんじゃないか?」
桐島はカーテンを開け、外の様子を伺った。暗くて何も見えないながらも街灯の下、オレンジ色に照らされた雨粒の勢いたるや。時おり防波堤に砕かれた波飛沫が路面を洗う。重ねて絶え間なく続く風鳴りの音。吉田も窓の外を覗き見る。
「うわ、ホントだ。こんなんで表出たら飛ばされっちゃいますよ。津村先輩小さいから、真っ先に飛……あ、ど、鈍器を振りかぶるのはやめましょう」
その時、大広間の襖が勢い良く開いた。
「お客さん、まだこんな所でのんびりしてらしたんですか! さっきの町内放送聞こえなかったんですか? 高台の小学校に避難するんですよ!」
矢継ぎ早に捲し立てたのは女将であった。その慌て振りを見て、彼らも尋常ではないと思わざるを得なくなる。
「こ、こんな中、外に出るのかね」
「ここは目の前が海だから危ないんですよ。早く着替えて来て下さいな」
「ほら、言わんこっちゃない」
勝ち誇った顔の津村。彼らは渋々重い腰を上げた。
浴衣から着替え貴重品だけを持ち荷物はそのまま。ロビーに降りれば女将以下四人の従業員だけが待ちわびた様子。配られた雨合羽を着込む。
「皆さん揃いましたか? 生憎車は用意出来ませんでしたが、坂を登れば避難所まで五分も掛かりませんので」
女将が自動ドアが開ける。同時に激しい雨音と海の匂い。ソテツの木が千切れんばかりに葉を靡かしている。とても傘など役に立ちそうにない。
「うわ、ひでぇな」
「ほ、本当にこの中を行くのかね」
吉田と眞島はその壮絶な光景を目にして尻込みする。
「何怖じ気づいてんですか! さっさと行きますよ」
言うなり先頭立って嵐の中へと飛び込んで行ったのは津村。しかし次の瞬間であった。
「あーーれーーーーっ!」
「いかん! 津村くんが飛ばされた!」
「待ってろ、今助けに行くからな!」
「社長!無茶しないで下さい!」
外は横殴りの雨で目も開けられないほど。そんな中、津村は旅館の玄関先に植わるソテツにしがみついていた。
「ひぃぃぃ!」
「大丈夫か、掴まりなさい!」
ポリバケツが飛んでゆく。立て看板が飛んでゆく。黒い何かが飛んでゆく。
「しまった!」
津村は助けに来た男に支えられながら、一歩一歩進んで行った。暗闇の中に浮かび上がる水銀灯は、そこが学校のグラウンドであると教えてくれる。やがて避難所に辿り着き、津村はほうほうの体で顔を上げた。
「ありがとうございます。お陰で助かりました」
目の前には満面の笑顔。その頭部は水銀灯を反射して眩しく輝いていた。
「……だ、誰!?」
ー完ー
2017年09月14日
落日
あまりの騒音に目を覚ませば、そこは雑踏の中だった。
視界には幾つもの黒い足。足。足。そして、風に舞う赤い砂が靄のように覆い尽くす石畳。
こんな所で何してるんだろうと、朦朧とした意識の中で考えながら僕は、起き上がれば辺りは騒然……いや、僕は気を失っていたのかも知れない。
血みどろな人々。路上には破片肉片。駆け回る警官隊。燃え盛るフィアット。阿鼻叫喚そして喧騒。
まずは冷静になれと自分に言い聞かし、何が起きたのかを考える。僕は街を歩いていた。ただそれだけだった……筈。
起き上がろうとした時、狭い路地から現れた少女と目が合う。僕をただ見詰めている。純白のドレスが今のこの状況とは不釣り合いで……やがて少女は埃や煙が風に流される中を歩み寄り、そして前屈みに僕の顔を覗き込んだ。
「大丈夫?」
天使のような微笑み。こんな状況下で笑顔なんて、何者なんだ?
「あ、うん。それより、一体何が……」
「あのね、ドカーンって」
まさか、爆破テロ!? 確かに最近戒厳令が敷かれ、夜間の外出も控えるようテレビで呼び掛けられていて、彼女の家に夜這いにも行けないと嘆いていた、そんな矢先だ。
「それよりお兄ちゃん、どっか行こーとしてたんじゃない?」
いきなり何を言い出すのかと一瞬訝かしんだが、言われてみれば確かに。僕には行かなければならない場所が……そうだ、僕は行かなくては。彼女が置き忘れて行った携帯電話を届けてあげなければ。
人だかりをすり抜け市場を抜ければ西陽に輝くアドリア海。海岸通りを左、突き出した岬の突端に古城が見えて来たら、右手にパン屋、左手には煉瓦造りの小さな花屋が一軒。
「ジュリアーノ!」
花屋のシャッターは固く閉ざされている。サルビアの咲き誇る二階の窓に向かって叫んだが返事はない。僕は建物脇のドアから中を覗いた。
静か、だが、人の気配は感じる。
「ジュリアーノいるのかい?」
寝ているのだろうか。僕は音をたてずに階段を昇り、そしてカチャリ、と、寝室のドアが開いた。
「……?」
カーテンを閉めきった薄暗い寝室の中、振り向いた彼女はしかし、ベッドの上で裸だった。そして彼女の上には見知らぬ、やはり裸のアラブ人。
「ジュリアーノ……これは、いったい」
二人は強く抱き締め合っていた。僕は絶望感で血の気が引く思いで、しかし彼女の顔は驚きよりも恐怖に塗り潰されてゆく。
目を大きく見開き両の手で口元を被い、そして叫ぶ。
「い、嫌ァァッ!」
僕はそんなに怖い顔かい?
別に殴ったりはしないよ?
僕は暴力が嫌いな人間だって知ってるだろ?
僕はただ携帯を届けに来ただけなんだ。
ほら……。
ポケットを探るが、出て来たのは粉々になった金属片。男の叫ぶ、異国の言葉。硝煙を吐き出す、ショートバレルのリボルバー。
銃声!! 僕に向けられたその銃口は小刻みに震える。
矢継ぎ早に繰り出される弾丸はしかし、僕の体をすり抜けて漆喰の壁を穿つ。
訳も判らずとにかく逃げた。二階の窓から飛び出し海岸通りに降りた所で目の前に迫るBMW!
…………ふと、
向かいのパン屋のショウウインドゥが見えたがしかし、映し出されていたのは昼下がりの海岸通りと犬を散歩させている老人。
日常の風景。そこに僕の姿は無く、BMWは何事も無かったかの如く走り去った。
僕は改めて自分の姿を確かめた。掌には薔薇のような鮮血。そして抉り取られた体。散歩中の犬がいきなり僕に吠えかかる。
「う……嘘だろ」
痛みなど感じない。これは現実ではない。夢……そう、夢に決まってるさ。
「夢なんかじゃないよ」
背後から聞こえた声に振り向けば、白いドレスを着たあの時の少女だ。
「お兄ちゃんはね、バクハツして死んじゃったんだよ」
爆発? 僕が?
嫌な考えがよぎる。まさか……そんなまさか!
「もう気が済んだ?」
「済んだ、って……」
携帯を届けようにも粉々。しかも彼女は見知らぬアラブ人と……そうか。爆弾はあの携帯電話で、テロリストはアラブ人で、共謀者はジュリアーノ。信じたくはないけれど、そう考えれば全て納得できてしまう。
「さぁ、もう行かなきゃ」
そう言って少女は僕に手を差し伸べる。その背中からは西陽を浴びてオレンジ色に輝く純白の翼が現れた。
やがて僕の体がフワリと浮き、高く抜けた青空に吸い込まれてゆく。散歩の犬は相変わらす僕に吠えかかり、最後に花屋の二階の窓を見た。その瞬間窓が開け放たれカーテンが吹き溢れ、赤いサルビアの中から髪を振り乱したジュリアーノの、泣き濡れた顔。
「アレン!」
確かに僕を見詰めてそう叫んだ。僕はアドリア海よりも青い空に昇りながら、そんな彼女になぜか微笑み掛けていた。
全てが沈みゆく夕陽に照らされオレンジ色に輝いて。
ー完ー
2017年09月14日
エレベーター
女の風呂はなぜこうも長いのか。そんな事を考えながら俺は、女湯の前にあるベンチで煙草をふかしていた。飲みかけのスポーツドリンクはだいぶ軽くなり、もう一本、開けていないそれは汗をかいて木製のベンチを濡らす。
やけに細い自動販売機の蛍光灯は廊下の白熱灯よりも明るく、床面を占める赤絨毯も真ん中の辺りが磨り減っている。由紀恵が風呂から上がって来たのは、ちょうど煙草を揉み消した頃。
「お待たせー。お風呂広かったぁ」
濡れ髪の由紀恵は湯気を纏い、赤く染めた頬に皺を寄せて微笑んだ。俺はプルタブを開け、スポーツドリンクを渡す。
「あ。アリガト……ってか、ヌルくない? コレ」
「お前が出てくんの遅かったからだよ。とりあえず一旦部屋にタオル置いて、メシ食い行くぞ」
ぺたんぺたん、と、二人のスリッパが廊下に響く。旅館と呼ぶには大きく、ホテルと呼ぶには小さい、そんな観光ホテルはヒビの入った鉄筋コンクリート。かなり古い造りだが、掃除が行き届いており清潔感が漂っていた。ロビーの手前、左手にエレベーターがある。ひと気は、無い。
チン
エレベーターの手前まで来た時に、そのドアが開いた。なんていいタイミングなんだ、と思ったが、中からは誰も降りては来ない。
「おー、グッドタイミングー」
誰かが『上』を押していたんだろうか。右隣の階段を覗き上げて見たが……
「早くー。置いてくよ」
「あ、待てよっ」
ゴウン……
四階までしか無いボタンの三階を押しすと、エレベーターはガクンとなりながらゆっくりと動き出した。
「しっかし、おっせーエレベーターだなぁ」
「アハ、古そうだもんね」
チン……
ぺたんぺたんぺたんぺたん……
昭和の頃は繁盛したんだろう面影が残る観光地。昭和天皇がこの小さな観光ホテルを訪れた時の白黒写真が、ロビーの大きな額に飾られていた。近くには万葉集に詠われた景勝地があるのみで温泉も無く、今の時代には流行らないだろう事ぐらいは想像がつく。
「おなか空いたー」
畳の上で髪を乾かしていた由紀恵はドライヤーを止め、浴衣の帯を締め直して立ち上がった。
両側に四部屋づつ、計八部屋程が並ぶ静かな廊下は、エレベーターと階段の向こうで左に折れてすぐに右へ折れている。その先にもいくつか部屋があるようだ。
「階段でいっか」
エレベーターが一階に降りていたのを見て俺は言った。三階なんだから階段の方が早い。
ロビーに出て左手の食堂は、レストランと呼んでも差し支えない豪華さ。物静かな女将が目尻に皺を寄せながら料理を運んで来た。
「お待たせしましたぁ」
たらば蟹、白海老の刺し身、螢イカのしゃぶしゃぶ、そして目の前の海岸で採れたもずく酢。上品な手付きで、しかし無駄の無い動きで海の幸が並べられてゆく。由紀恵は満面の笑み。それにしても、この広い食堂に俺と由紀恵、二人きり。
「他にお客さん居ないんかな?」
静かなクラッシックがBGM。食べる事に夢中な由紀恵は答えない。奥の厨房に板前さんがいるのだろうけれど、考えてみればこの観光ホテルで女将以外の従業員を見ていない。まぁ、客がたった二人だとして客より従業員の方が多いというのも、なんだか空しい。
「おいしかったね」
「ああ。予想以上に豪華だったよな」
「それに量、多いし。もうおなか苦しくて動けませーん」
瓶ビールを開けて暫く談笑する。テーブルの上だけが賑やかで明るかった。天井からは小さなシャンデリアのような照明。片隅にある九谷焼の壺や欄干の書など、全てが高そうだ。
「そろそろ部屋に戻るか」
「うんっ」
俺は煙草を揉み消した。
チン……
食堂を出てロビーを横切った時、エレベーターのドアが開いた。由紀恵がぺたぺたと小走りで乗る。また、誰も降りて来ない。
「アハハ、自動ドアみたい。今日はツイてるね」
「あ、ああ……」
女将が『上』を押しておいてくれたのか? いや、まさか。不思議に思いながらもドアは閉まる。
ゴウン……
「なんか肌寒いね、このエレベーター」
「そういや、そうだな」
「あっ、私、三階押してない!」
「バッカだなぁ」
そう言って三階のボタンを押した時には、すでに通過していた。
チン
ドアは四階で開いた。誰かがエレベーターを呼んでいたのか? しかし……
「あれぇ? 誰もいないよ」
由紀恵も不可解な事に気付いたらしい。俺はすぐさま『閉まる』のボタンを押した。
が、閉まらない。反応が無い。
「おかしいな」
「ねぇ、階段で降りよ。下の階だし」
「そ、そうだな」
心無しか薄暗いような。気のせいかもしれない。俺と由紀恵は赤絨毯の上に出た。確か、左隣に階段が、
「無い!」
あるのはモルタルで塗り潰された、階段口らしき跡。
ゴウン
それまで開きっぱなしだったドアが、重い音を立てて突然閉まった。
「ちょっとぉ、どうなってんの?」
俺はすぐエレベーター脇の『下』のボタンを押した。しかし乳白色の小さなボタンは、光ってはくれない。廊下は不気味なほど静まり返っている。
「他にも階段があるかも知れない」
言いながらフロントに電話しようと思ったが俺たちは浴衣姿で、部屋に携帯を置いて来た事に気付く。
「なんか、気持ち悪いよ」
ぺたん
「しっ! 静かに」
ぺたん……ぺたん
「やだ、ちょっと、ねえ!」
エレベーターを背にして右側、廊下の突き当たりは明かりも消えた暗闇。その誰も居ない暗闇からスリッパの足音だけが、聞こえる。
ぺたんぺたんぺたん
「ひっ!」
俺は由紀恵の腕を掴んで走り出していた。
ぺたぺたぺたぺたぺたぺた
「いやあぁぁ!」
自分たちの足音で背後の足音が掻き消される。廊下を途中で左手に折れる。曲がってすぐに突き当たり、右を向けばその先の廊下は明かりが消えていた。
「なんなんだよこの階は!」
入ってはならない場所に足を踏み入れてしまったような感覚。まるで長く使われてなかったかのようなカビ臭さと、足元も覚束ない暗闇に一瞬たじろぐ。だがしかし、その闇の先に緑色の光源を見つけた。その下には曇りガラスの嵌め込まれた、鈍い銀色の扉。非常口だ!
泣きながら転びそうになる由紀恵の腕を掴み直して駆け出す。背後から風で煽られているような感覚が全身を襲う。決して、振り返ってはならない。
「開いていてくれ!」
祈るような思いでスチール製のドアノブに飛び付いた。
カチャ
瞬間、潮風の香りとさざ波の音に包まれた。左手は黒い断崖。右手に見下ろす夜の海岸線。その手前の県道には横断歩道。赤信号。後ろ手に非常口の扉を閉めた、その時。
ダン!
衝撃そして……振り向けば曇りガラスにぼんやりと、青白く浮かび上がる顔のようなものが。
「キャァァァッ!」
俺と由紀恵は叫びながら、錆びた鉄骨階段を二階、一階と、一気に駆け降りた。
……階数が足りない。
「おかしいですねぇ。ウチは三階建てですよ?」 一階でエレベーターを開けると、確かにボタンは三つしか無かった。女将と一緒に階段を昇る。すると階段は三階で止まっていた。この日、俺たちは一階の部屋に移らせてもらう事にした。
「ごめんなさいね。今までそんな事、一度も無かったんだけど。でも……」
昔は四階建てだったそうだ。しかし二十年前に一度火事が起き、その際四階だけを取り壊して改築したそうな。
その火事で、死傷者が出たかどうかまでは、女将の口からは語られなかったが。
ー完ー
2017年09月14日
最後の投稿
山手線と埼京線と西武新宿線が同時にガードの上を通過すると、凄まじい轟音に耳が痛くなる。前を歩く木場クンは振り向きざま口を動かしているだけで、何と言っているのか全く聞き取れない。流れる白い明かりが暗がりに浮かぶ顔を明滅させる。「なんて!?」と叫んだつもりが、そんな自分の声すら掻き消された。彼は低いガードを茫と見上げ、電車が走り去るのをひたすら待つ。
やがて「すごい音だね」と、あまりに当たり前過ぎる言葉。失望した私は、彼を無視して再び歩き始めた。
「そう言えば結局田名部のやつ、来なかったな」
「ん。香織? そうだね。なんか具合悪そうな事は言ってたけど」
飲み会に行けないかもと香織からメールがあったのが今朝の事。本当だったら今夜、彼女はこの男に想いを告げる覚悟をしていた。相談を受けていた私も秘かに楽しみにしていたんだけれども。
「ビールでいっか」
コンビニの酒コーナーで、言いながら彼が手にしていたのは発泡酒。
「いいよ。何でも」
昔から男を見る目が無かったとは言え、香織はなんでこんなつまんない男を好きになってしまったのか。特にイケメンでもないし、服のセンスも地味でイマイチ。悪い人じゃないんだけど、私は魅力を感じなかった。
コンビニを出ると韓国語の放送が流れる大久保通り。中野方面に小滝橋通りを越えた先に木場クンのアパートはあった。今時木造二階建てのボロアパート。二階の共用廊下を歩けはミシリと軋んだ音がする。
「よくこんなアパート見つけたわね」
「安いんだ。ベラボウに」
六畳一間の狭さだが部屋は小綺麗に片付けられている。しかしこの清潔感を差し引いても、女を連れ込むような部屋じゃない。だいいちシャワーがない。
「暑いわね。冷房無いの?」
「悪い。扇風機しか無くて」
苛立ちとともに酔いも醒めてくる。終電に間に合いさえすれば、今頃はクーラーの効いた自分の部屋のベッドで快適に過ごしていただろうに。網戸からそよぐ夜風は生ぬるく、虫の声と遠くのサイレンを部屋に運んで来るばかり。
「飲むかー」
半ばヤケクソな私は発泡酒のプルタブを開けた。漫画喫茶で始発を待った方が良かったかも知れないと後悔もするけど、酔った勢いとその場のノリってものがあった。
「島田は公募向けの作品とか書けてんの?」
「全然。一行も書けてない。なんかスランプっぽい。木場クンは? さっき飲み屋でさんざん熱く語ってたけど」
「へへ、実は俺も。最近煮詰まってて。暑いからだな、うん」
「そうだ。香織がさ、新作をサイトにアップしたとか言ってたわよ」
「へぇ、後でちょっと覗いてみっか」
文学サークルの飲み会だったにも関わらず、文章について話してたのは彼一人ぐらいだった。みんなただ飲みたかっただけなんだ。私も含めて。
「木場クンて、真面目だよね」
「え? 何が?」
「文章に対してよ。私なんかプロになれるなんて本気で思ってないし、何書いてもぐだぐだだし」
早くも発泡酒がぬるい。開けたばかりのポテチも湿気り始めている。
「俺だって目指しちゃいるけど、どうかな」
「考えて見れば香織も真面目なのよねぇ……。木場クン、香織とだったら気が合うんじゃない?」
そう言う部分で彼女はコイツに惹かれてたのかも知れない。
「どうかな。どっちかって言うと、逆のタイプの人の方が合うと思うんだよね。俺、遊びとかあんま知らないし、自分に無い物持ってる人の方が。……その、島田みたいなさ」
「え……私?」
なんだこの展開は。まさかコイツ……。
「そ、そだ、香織がアップした小説見てみようよ」
私はぬるい発泡酒を飲みきって携帯を開いた。木場クンもため息混じりにパソコンを立ち上げ、文芸サークルのサイトにアクセスした。メンバーは皆ここに小説をアップして、ネット上で批評し合ったりしている。
「……」
今は携帯で小説を読んでも全く集中できない。頭が読みモードに切り替わらないし、沈黙がなんとも居心地悪く感じる。
――――山手線と埼京線と西武新宿線が同時にガードの上を通過すると、凄まじい轟音に耳が痛くなる――――
その書き出し文を読んだ時、私は奇妙な違和感を感じた。既視感というか。顔を上げると木場クンも神妙な顔つきで眉間に皺を寄せている。
――――コンビニを出ると韓国語の放送が流れる大久保通り。中野方面に小滝橋通りを越えた先に彼のアパートはあった――――
これは既視感なんていう生易しい物じゃない。腕に鳥肌が立つ。そこで私はある事に気付いた。
コメント投稿時間。本日零時三十分。私は小さなテレビの上にあるデジタル時計を見る。零時五十五分。
「ね、ねぇ、木場クン。これって……」
「あ、ああ」
「香織って、木場クンの部屋に来た事あんの?」
「まさか」
私は再度読み込み、ページを更新させた。
――――「暑いわね。冷房無いの?」
「悪い。扇風機しか無くて」――――
見合わせる顔は血の気も引いて青白い。虫の声は止まり、扇風機のモーター音だけが唸りを上げている。
「ちょっと。何? 何なの? コレ」
「知るかよ」
淀んだ空気が熱を帯び、扇風機の風も生暖かい。背中にジワリと汗が滲む。私は震える指で更にページを更新した。
――――シルエットの女は私じゃなかった。本当は私が彼の部屋に来たかったのに。壁にもたれ掛かる彼は青ざめた顔で女を見つめていた――――
背中越しに視線を感じる。振り向いてはいけない。そう思った瞬間、木場クンの顔が恐怖に歪み、声にならない叫びをあげながら震える指先で私の背後を指差した。
つい。
つい私は右後ろを振り向いてしまった。相変わらず扇風機の唸り。二十センチだけ開いた押し入れの隙間。ぽっかりと口を開けたその暗闇の下、畳の上。こちらを覗き込んでいる顔は悲しそうな、いやむしろ、羨ましそうな香織。
空になった缶が畳を転がる。後じさる私。と、私の背後に隠れるように木場クン。
ざわ。と、ひんやり冷たい風が網戸から流れ込み、私のうなじの辺りを冷やした。
ピシャッ
勢い良く襖が閉まる瞬間の、香織の顔が怒りとも悲しみともつかなく、醜く歪んで私を見詰めた。
虫の声が戻る。元の通り生暖かい風が汗を滲ませた。恐怖が過ぎた後、ふつふつと怒りが込み上げて来る。
「な、なんで私なのよ! 私、コイツとはなんともなってないよ!」
大声で嫌な空気を振り払う。木場クンは下を向いて震えるばかり。でも、この男を責めてもしょうがない。彼は善良な小心者に過ぎない。
「木場クン。飲みに行くわよ! 人のいる所で朝まで飲み明かすわよ! だから付き合って」
私は目を見開いて頷く彼の手を取り、ネオンの灯りのもとへと駆け出した。
――――あの人は彼女が好きで、私には見向きもしてくれない。最初から駄目だったんだ。もし、私が車に轢かれなくて飲み会に行けて、彼の部屋に押し掛けて告白してたとしても、彼はきっと答えてはくれなかった。悲しいけど、それだけはハッキリしたから。だから私は想いを残さないようにします。
[完]
投稿時刻:二時四十三分
――――
ー完ー
2017年09月14日
夏の喝采
「由美子には好きな人がいるんだよ」
何の抑揚も無くそう言い放ったこの女は、修善寺香菜恵。由美子の友達である。やっと蝉も土から這い出て大空に飛び立ったと言うのに、俺のテンションは地の底へと突き落とされた。
「でも、可能性が無いって訳じゃ……」
「無いわねー、フラれるのが目に見えてるね」
普段滅多に言葉を交わさないこの根暗女に思い切って打ち明けた俺の覚悟は、由美子についての質問を重ねるよりも早く打ち砕かれる。
「なんとかなんねーのか?」
「……ならないわね」
クラスでも人気者の由美子に惚れて、いつも彼女と連るんでいるこの修善寺香菜恵に相談を持ち掛けたのは、俺が初めてじゃないのかも知れない。そう思えるほどに慣れた口調。
「くっそぉ、誰だよ由美子に好かれてるなんて言う果報者は!」
「それは遼助君には言えないよ」
今年は彼女と夏を満喫するってのが俺の計画。それを実行するためには、まず彼女をつくる事から始めなければならない。由美子に告白して人生初の彼女をゲットするのが第一段階。だがそんな高校一年目の夢も、一学期の終業式を待たずにして終了した。
しかし俺は諦めなかった。可能性が無いと告げられた由美子をではない。この夏こそ初の彼女を作るって計画をだ。まだ間に合う。夏休み中になんとかなれば、それでいい。
「誰か居ねーかな? って、修善寺に聞いてもしょうがねぇか。お前、友達ったら由美子ぐらいしか居ねぇからな」
夏休みまでのカウントダウン。空はすでに入道雲で、授業はいつにも増して上の空。校庭脇のプールから聞こえる声には、集中力を打ち消される。
「相談する相手を選んでよ」
「しゃーねーだろ。こんな事相談できんのは、由美子の事話したお前くらいしか居ねーんだから」
「知らないよ、そんなの」
別に女友達が居る訳でもなし。ましてや野郎どもは皆ライバルだ。
「修善寺は彼氏とか欲しいって思わねーのか?」
「べ、別に。男の人と付き合うんだったら、本読んだりゲームしてたりしてる方がいいし」
「暗い。暗いなぁ」
「いいじゃない、私の勝手でしょ!?」
「あ、まぁ……」
いきなり大声を出す香菜恵に俺は少し驚いた。普段から大人しいこいつが感情的になるのを初めて見た気がする。
いくら足掻いても時は止められず、寝て起きて気付けば夏休み。男だけで海に行く話もあった。だが俺はそんな負け犬どもと連るみやしない。クラスにはチャッカリ彼女作ってシケ込む勝ち組どもがいた。俺はそんな高校生ライフの勝者になりたかったんだ。
「ばかみたい」
「お前……ひと言で終わらせんじゃねえっ!」
いくら熱く語っても理解して貰えない。女ってのはそう言うもんなのか、それともこの香菜恵が特別なのか。
「悪いけど、私じゃ遼助君の力になってやれないよ」
「……わかってんよ」
「じゃぁなんで夏休み入ってまで、私にそう言う話をすんの?」
仕方ないだろう。お前が都合よく近所に住んでいて、俺と同様夏休みライフを無益に浪費しているからだ。
「ま、他に相談する相手も居ねーしな」
「遼助君て、もしかして友達いないん?」
「ん、んなこたぁない!」
ただ、奴らと連るんでいても、ひと夏の恋なんてイベントが起こり得る可能性は限りなくゼロに等しい。それだけだ。今年の俺は去年の俺とは違うのだ。
「しょうがないな。紹介できる娘も居ないけど、遼助君の力になったげるよ。って言うか、応援ぐらいしかできないけどね。へへ……」
「おうっ! 約束だぞ。俺に全面協力するってな! 今年の夏は、長くなるぜっっ! ぜってー彼女をゲットだぜ!」
イケてるギャルとひと夏のランデブー。それが俺の夢だった。ビキニに浴衣にノースリーブ。夢はまさに巨乳の如く膨らむばかりだった。だがしかし、今俺の隣で綿菓子食ってんのは貧相な乳と書いて貧乳。
「なに?」
「いや、なんでもねぇ」
縁日の奥から祭囃子。ソースの焼けた匂いが生ぬるい風に運ばれて、俺の鼻孔をくすぐる。
「どうでもいいけど、なんで私が遼助君のよての穴、埋めなきゃなんないの?」
「俺の周りにはヘタレしか居ないからだ。ナンパしに行こうっつったのに、奴ら怖じ気づきやがって」
「じゃぁ一人でナンパしてればいいじゃん」
「心細いじゃん! それに一人でんな事すんのって虚しいじゃん!」
「なに威張ってんのよ。……あのさ、今さら聞くのもなんだけど、あんたもしかして……ばか?」
「バカじゃねえ」
即答しつつも、鋭い指摘にちょっとだけ自信が揺らぐ。
「それで、間に合わせで私誘ったの?」
「なんだよ、修善寺だってヒョコヒョコついて来たじゃねーか」
「誘っておいて、それは無いなー」
香菜恵は笑っている。いや、嘲笑っている。でもまぁ、家で一人でゴロゴロしてるよりは、良かったかも知れない。境内の木々の合間に見え隠れする空は、茜色から青紫に。ほんの少し涼しく感じられるようになった風が、汗を冷やして心地いい。
「あれー、香菜恵じゃない?」
その時、振り向いた俺の視界には、帯で苦し気に圧迫されて悲鳴でも聞こえて来そうな胸元。
「あっ、由美子。な、なんだ、来てたの?」
なんと、提灯の赤に染められたその姿、紛れもなく憧れの君、由美子ちゃんであった。
「あれ? 遼助君も……ってもしかして、一緒なの?」
「いや、違うのこれは……」
驚いた顔の由美子ちゃん。つい見とれてしまう。だが、なぜか狼狽える修善寺。
「ねぇ、なんで香菜恵が遼助君と一緒にいるの?」
「いや、その、近所だしさ、たまたまお互い暇してたから」
人波の中で立ち尽くす二人は、ハッキリ言って邪魔だ。て言うかなんで立ち尽くす? なんだこの険悪なムードは?
「そう……そうなんだ。香菜恵、私に黙ってこんな事してたんだ」
「べ、別に、黙ってた訳じゃ……」
「香菜恵。遼助君が好きな相手って、あなただったの?」
「違う! 違うけど……ごめん」
「嘘つき」
ざわめきの中でやっと聞き取れるほどの声は、確かにそう聞こえた。
「あっ、由美子ちゃん!」
訳も分からないまま、とにかく駆け出す彼女を追おうとする俺は、袖を掴まれ引き留められる。
「修善寺……なんなんだ? 何があったんだ?」
「ごめん……遼助君」
参道の人混みはみるみる酷くなって来た。遠くから規則正しい笛の音。町を練り回っていた神輿が宮入りをしようとしていた。
「あっ、お神輿だよ! ねえねえ見に行こ!」
俺の手を掴んで引っ張る香菜恵。俯き加減で顔は見えない。
やがて威勢のいい神輿の掛け声に境内は包まれた。俺は不覚にも、離さない手に心拍数が上がる。宮入りを見ようと集まる人波に圧迫されて、はぐれまいとその手を握り返す。
セィャ、セィャ、セィャ、セィャ……
「こんなの、フェアじゃないよね。私、酷いよね」
「な、なんだよいきなり」
セィャ、セィャ、セィャ、セィャ……
「由美子のね、好きな人って、遼助君だったんだ」
「なっ!」
セィャ、セィャ、セィャ、セィャ……
「黙ってたんだ。っていうか、嘘ついてた。遼助君にも、由美子にも」
「お前、なんでそんな……」
ワァァァーーー……
チョン、チョン、と、拍子木に合わせて天高く持ち上げられる神輿。そして歓声。
「だって! 私、由美子みたいに可愛くないし、胸だっておっきくないし……」
「何言ってんだよ!」
「それでも……それでも私……」
「なに!? 聞こえねえっ!」
歓声に掻き消される小さな声。だけど、香菜恵の目は真っ直ぐと俺の目を見詰めていた。そして、語っていた。
「あのね! 私ねっっ! 遼助君の事…………き……」
「だぁーっ! わかったよ!」
声は聞こえなくても、俺には聞こえた。はっきりと。バカ野郎が。そんな目で見つめるから、巨乳とランデブーっていう俺の野望が打ち砕かれちまったじゃねえか。
照明に照らされ黄金に輝く神輿に拍手喝采。その人波の中で、俺は香菜恵を強く抱き締めていた。そしてこいつは、俺には勿体無いくらいの存在だって事に気付く。
「約束通り俺の夏休み計画の力になってもらうぜ」
「遼助君の……計画?」
「ああ、全面協力してもらうぜ。俺の彼女づくりに。お前の身をもってな!」
鼻先を突き合わせるお互いの顔は、笑顔で満ちていた。
ー完ー
何の抑揚も無くそう言い放ったこの女は、修善寺香菜恵。由美子の友達である。やっと蝉も土から這い出て大空に飛び立ったと言うのに、俺のテンションは地の底へと突き落とされた。
「でも、可能性が無いって訳じゃ……」
「無いわねー、フラれるのが目に見えてるね」
普段滅多に言葉を交わさないこの根暗女に思い切って打ち明けた俺の覚悟は、由美子についての質問を重ねるよりも早く打ち砕かれる。
「なんとかなんねーのか?」
「……ならないわね」
クラスでも人気者の由美子に惚れて、いつも彼女と連るんでいるこの修善寺香菜恵に相談を持ち掛けたのは、俺が初めてじゃないのかも知れない。そう思えるほどに慣れた口調。
「くっそぉ、誰だよ由美子に好かれてるなんて言う果報者は!」
「それは遼助君には言えないよ」
今年は彼女と夏を満喫するってのが俺の計画。それを実行するためには、まず彼女をつくる事から始めなければならない。由美子に告白して人生初の彼女をゲットするのが第一段階。だがそんな高校一年目の夢も、一学期の終業式を待たずにして終了した。
しかし俺は諦めなかった。可能性が無いと告げられた由美子をではない。この夏こそ初の彼女を作るって計画をだ。まだ間に合う。夏休み中になんとかなれば、それでいい。
「誰か居ねーかな? って、修善寺に聞いてもしょうがねぇか。お前、友達ったら由美子ぐらいしか居ねぇからな」
夏休みまでのカウントダウン。空はすでに入道雲で、授業はいつにも増して上の空。校庭脇のプールから聞こえる声には、集中力を打ち消される。
「相談する相手を選んでよ」
「しゃーねーだろ。こんな事相談できんのは、由美子の事話したお前くらいしか居ねーんだから」
「知らないよ、そんなの」
別に女友達が居る訳でもなし。ましてや野郎どもは皆ライバルだ。
「修善寺は彼氏とか欲しいって思わねーのか?」
「べ、別に。男の人と付き合うんだったら、本読んだりゲームしてたりしてる方がいいし」
「暗い。暗いなぁ」
「いいじゃない、私の勝手でしょ!?」
「あ、まぁ……」
いきなり大声を出す香菜恵に俺は少し驚いた。普段から大人しいこいつが感情的になるのを初めて見た気がする。
いくら足掻いても時は止められず、寝て起きて気付けば夏休み。男だけで海に行く話もあった。だが俺はそんな負け犬どもと連るみやしない。クラスにはチャッカリ彼女作ってシケ込む勝ち組どもがいた。俺はそんな高校生ライフの勝者になりたかったんだ。
「ばかみたい」
「お前……ひと言で終わらせんじゃねえっ!」
いくら熱く語っても理解して貰えない。女ってのはそう言うもんなのか、それともこの香菜恵が特別なのか。
「悪いけど、私じゃ遼助君の力になってやれないよ」
「……わかってんよ」
「じゃぁなんで夏休み入ってまで、私にそう言う話をすんの?」
仕方ないだろう。お前が都合よく近所に住んでいて、俺と同様夏休みライフを無益に浪費しているからだ。
「ま、他に相談する相手も居ねーしな」
「遼助君て、もしかして友達いないん?」
「ん、んなこたぁない!」
ただ、奴らと連るんでいても、ひと夏の恋なんてイベントが起こり得る可能性は限りなくゼロに等しい。それだけだ。今年の俺は去年の俺とは違うのだ。
「しょうがないな。紹介できる娘も居ないけど、遼助君の力になったげるよ。って言うか、応援ぐらいしかできないけどね。へへ……」
「おうっ! 約束だぞ。俺に全面協力するってな! 今年の夏は、長くなるぜっっ! ぜってー彼女をゲットだぜ!」
イケてるギャルとひと夏のランデブー。それが俺の夢だった。ビキニに浴衣にノースリーブ。夢はまさに巨乳の如く膨らむばかりだった。だがしかし、今俺の隣で綿菓子食ってんのは貧相な乳と書いて貧乳。
「なに?」
「いや、なんでもねぇ」
縁日の奥から祭囃子。ソースの焼けた匂いが生ぬるい風に運ばれて、俺の鼻孔をくすぐる。
「どうでもいいけど、なんで私が遼助君のよての穴、埋めなきゃなんないの?」
「俺の周りにはヘタレしか居ないからだ。ナンパしに行こうっつったのに、奴ら怖じ気づきやがって」
「じゃぁ一人でナンパしてればいいじゃん」
「心細いじゃん! それに一人でんな事すんのって虚しいじゃん!」
「なに威張ってんのよ。……あのさ、今さら聞くのもなんだけど、あんたもしかして……ばか?」
「バカじゃねえ」
即答しつつも、鋭い指摘にちょっとだけ自信が揺らぐ。
「それで、間に合わせで私誘ったの?」
「なんだよ、修善寺だってヒョコヒョコついて来たじゃねーか」
「誘っておいて、それは無いなー」
香菜恵は笑っている。いや、嘲笑っている。でもまぁ、家で一人でゴロゴロしてるよりは、良かったかも知れない。境内の木々の合間に見え隠れする空は、茜色から青紫に。ほんの少し涼しく感じられるようになった風が、汗を冷やして心地いい。
「あれー、香菜恵じゃない?」
その時、振り向いた俺の視界には、帯で苦し気に圧迫されて悲鳴でも聞こえて来そうな胸元。
「あっ、由美子。な、なんだ、来てたの?」
なんと、提灯の赤に染められたその姿、紛れもなく憧れの君、由美子ちゃんであった。
「あれ? 遼助君も……ってもしかして、一緒なの?」
「いや、違うのこれは……」
驚いた顔の由美子ちゃん。つい見とれてしまう。だが、なぜか狼狽える修善寺。
「ねぇ、なんで香菜恵が遼助君と一緒にいるの?」
「いや、その、近所だしさ、たまたまお互い暇してたから」
人波の中で立ち尽くす二人は、ハッキリ言って邪魔だ。て言うかなんで立ち尽くす? なんだこの険悪なムードは?
「そう……そうなんだ。香菜恵、私に黙ってこんな事してたんだ」
「べ、別に、黙ってた訳じゃ……」
「香菜恵。遼助君が好きな相手って、あなただったの?」
「違う! 違うけど……ごめん」
「嘘つき」
ざわめきの中でやっと聞き取れるほどの声は、確かにそう聞こえた。
「あっ、由美子ちゃん!」
訳も分からないまま、とにかく駆け出す彼女を追おうとする俺は、袖を掴まれ引き留められる。
「修善寺……なんなんだ? 何があったんだ?」
「ごめん……遼助君」
参道の人混みはみるみる酷くなって来た。遠くから規則正しい笛の音。町を練り回っていた神輿が宮入りをしようとしていた。
「あっ、お神輿だよ! ねえねえ見に行こ!」
俺の手を掴んで引っ張る香菜恵。俯き加減で顔は見えない。
やがて威勢のいい神輿の掛け声に境内は包まれた。俺は不覚にも、離さない手に心拍数が上がる。宮入りを見ようと集まる人波に圧迫されて、はぐれまいとその手を握り返す。
セィャ、セィャ、セィャ、セィャ……
「こんなの、フェアじゃないよね。私、酷いよね」
「な、なんだよいきなり」
セィャ、セィャ、セィャ、セィャ……
「由美子のね、好きな人って、遼助君だったんだ」
「なっ!」
セィャ、セィャ、セィャ、セィャ……
「黙ってたんだ。っていうか、嘘ついてた。遼助君にも、由美子にも」
「お前、なんでそんな……」
ワァァァーーー……
チョン、チョン、と、拍子木に合わせて天高く持ち上げられる神輿。そして歓声。
「だって! 私、由美子みたいに可愛くないし、胸だっておっきくないし……」
「何言ってんだよ!」
「それでも……それでも私……」
「なに!? 聞こえねえっ!」
歓声に掻き消される小さな声。だけど、香菜恵の目は真っ直ぐと俺の目を見詰めていた。そして、語っていた。
「あのね! 私ねっっ! 遼助君の事…………き……」
「だぁーっ! わかったよ!」
声は聞こえなくても、俺には聞こえた。はっきりと。バカ野郎が。そんな目で見つめるから、巨乳とランデブーっていう俺の野望が打ち砕かれちまったじゃねえか。
照明に照らされ黄金に輝く神輿に拍手喝采。その人波の中で、俺は香菜恵を強く抱き締めていた。そしてこいつは、俺には勿体無いくらいの存在だって事に気付く。
「約束通り俺の夏休み計画の力になってもらうぜ」
「遼助君の……計画?」
「ああ、全面協力してもらうぜ。俺の彼女づくりに。お前の身をもってな!」
鼻先を突き合わせるお互いの顔は、笑顔で満ちていた。
ー完ー